日本では「宗教離れ」が言われているが、実際には「宗教そのものへの拒否」というより、「組織宗教への抵抗感」が強くなっているのだと思う。
多くの日本人は、初詣に行き、お盆を大切にし、葬儀を行い、「いただきます」と言って食事をする。
そこには、見えないものへの畏敬の念が息づいている。
日本は今も、宗教的・精神的文化が豊かな国だと思う。
一方で、組織宗教への不信や、個人を重視する価値観の広がりによって、共同体への帰属を避ける傾向が強まっている。
また、宗教を公に語りにくい空気もあり、教会・寺院・地域共同体との結びつきは弱くなった。
宗教離れや共同体の弱体化が、犯罪増加に直接結びついているとは思わない。
犯罪には、貧困、孤立、家庭崩壊、SNSによる過激化、承認欲求、将来不安、精神的ストレスなど、さまざまな要因がある。
ただ、「天知る、地知る、我知る」といった、自らを律する感覚を社会全体で共有しにくくなっている面はあると思う。
昔は、地域共同体、家族、学校、宗教が、「してはいけないこと」を人の内面に根づかせる役割を担っていた。
今は「自由」は増えたが、同時に「自分を律する根拠」を失いつつあるようにも感じる。
それでは、宗教は必要なのか。
私は、「人は“生きる意味”を必要とする存在である」という点で、宗教は必要だと思う。
科学は大きく進歩し、かつて治らなかった病を治せるようになった。
また、社会の効率化も急速に進んでいる。
しかし、「なぜ生きるのか」「苦しみにどう向き合うのか」「死をどう受け止めるのか」「なぜ他者を愛するのか」といった問いには、科学だけでは十分に答えられない。
宗教は本来、「恐怖で人を縛るもの」ではなく、人を孤独から守り、自分中心の生き方から解放し、他者への愛や赦しを学び、苦しみの中にも希望を見いだすための知恵の体系だったはずである。
現代では、「宗教を持つか持たないか」以上に、「人間の尊厳や良心をどう育てるか」が重要になっている。
そう考えると、健全な宗教共同体の価値は、今後さらに高まっていくのではないだろうか。
特に、孤独や分断、不安が強い時代だからこそ、「共に祈る」「弱い人を支える」「赦しを学ぶ」「感謝を思い出す」。
そうした場所への求めは、静かに増えているように感じる。










