あなたが生きれば私も生きる

piano

「あなたを押しのけて私は生きる」
結局このような生き方を私たちはしています。
そうでもしなければ生きてゆけないとよく言われますし、確かにその生き方で獲得することは多いのです。
しかし、獲得の喜びと命の喜びとは別であることに注意しましょう。
獲得の中で生命はむしろ不完全燃焼をかこっているのではないでしょうか。
蝋燭が他を照らしながら自分自身は消滅してゆくように、燃焼とは本来他に仕えることなのです。
「あなたが生きれば私も生きる」これはお人好しではありません。
燃焼を求める生命の訴えなのです。

藤木正三著『神の風景』(ヨルダン社)

他人を押しのけてまで生きようとした記憶はありません。
はたしてこのように言いきれるだろうか。

中学生の一時期、必死にテスト勉強しました。
それは、単に学ぶという思いではなく、良い点をとって「オレはできるんだ」と能力を誇示したい面があったことは否めません。

大した能力がなかったので、他人に自分の能力を示すことも、大した歓心を買うことも、まして権力を持つこともありませんでした。
もし私に優れた運動能力があれば、人を押しのけて全国大会に出場し世界を目指したかもしれません。

音楽的才能があればショパンコンクールを目指したかもしれません。
何かが出来ることは人を生きやすくします。
持っていることも同じです。
世間の評価も受けます。
そして他人の評価が自己肯定感に繋がると錯覚し、とりあえず生きる自信を持つのです。

しかし、それだけではなく、出来るようになること自体喜びです。
Ave Verum Corpusにチャレンジして弾けるようになった時、「やった!」という何とも言えない感情がありました。
そこには他人の評価はありません。

老齢期になりましたが、まだ走ることができます。
「今日も走れた」一人で拍手しています。

坂を上っていくような生き方はしませんが、坂を下りつつもピアノやランニングにチャレンジし続けます。

蝋燭が他を照らしながら自分自身は消滅してゆくように生きるのはもう少し後にします。

自分らしい死

A Personal Death

1980年、日本では65歳以上の高齢者と共に住む世帯は全体の50.%でした。
2022年9%に減少。単独世帯は31.8%、夫婦のみの世帯は32.1%です。
40年前、祖父母は家族でしたが、今は親戚の人になりました。

配偶者がいる人に聞いたという面白いアンケート結果があります。
「自分が先に死にたいか後に死にたいか?」
男性はどの年代も「先に死にたい」が圧倒的。
女性は50代以降「自分が後に死にたい」が多数。
これは責任感の現われでしょうか。
それとも夫との付き合いにつかれ、夫亡き後自由に楽しみたいという願望なのでしょうか。

毎日新聞とホスピス財団共催「自分らしい死」とは-リアルな「最後のプロセスを学ぶ-という講演会にオンライン参加しました。
3人の専門家が登壇され、「死」について考える時を持ちました。

多くの日本人は言います。
「死は怖いもの。だから死について考えたくない。長患いをして家族や他人に迷惑をかけたくない。それでも人間は死ぬのだからポックリ逝きたい」と。

登壇者は言いました。
「死ぬことのどこが怖いのですか。痛いからですか。今は緩和ケアの進歩で痛くないですよ。何が怖いのか考えてみてください。『「助けて』って言えるようになりましょう。それも一人に集中してはいけません。お互い助け合える知り合いを作っておくのです。動けなくなった時のためではなく、生きている時に何でも言える人がたくさんいた方が楽しいはずです。」

「死とは何か」・・・
生物学的に死んでも、その人の生き様によっては後世の人々に影響を与えます。
「立派な生涯でしたね」なんて言われなくてもいいのです。残された家族にとっては大切な人なのです。子どもにとっては唯一無二のお父さんでありお母さんです。

「なぜ死ぬことが怖いのか。老病死を恐れるのか」
「今までできたことができなくなることが、そんなに怖いのか」

友と語り合ってみたい。

赤とんぼ

赤とんぼ

夕焼け、小焼けの あかとんぼ
負われてみたのは いつの日か。

山の畑の 桑の実を
小籠に摘んだは まぼろしか。

十五で姐やは 嫁に行き
お里のたよりも 絶えはてた。

夕やけ小やけの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先。

日本人に最も愛されている童謡は「赤とんぼ」。
NHKの調査「明日へ残す心の歌百選」(回答数66万通)で一位に選ばれたのが、「赤とんぼ」。
二位は「ふるさと」でした。

私は「ふるさと」が一位だと思っていました。
「赤とんぼ」の作詞は三木露風、作曲は山田耕筰。
二人ともクリスチャンだったという事実をみなさんご存じですか?

『赤とんぼ』は、露風が32歳のときに作られました。
露風は裕福な家に生まれましたが、露風が6歳のときに両親が離婚。
一人だけ、祖父に預けられます。中学を中退。
上京して、慶応や早稲田で学び、その後、函館の「トラピスト修道院」に招かれ文学の講師になります。

「赤とんぼ」の詩は、この修道院で見た赤トンボに幼い時代の寂しさを謳ったと言われています。
また、赤とんぼを十字架に見立てたとも言われています。
露風が夫婦で洗礼を受けたのもここトラピスト修道院でした。

著書にキリスト教の信仰に基づく詩集や、『日本カトリック教史』『修道院生活』があります。その功績が認められバチカンからキリスト教聖騎士の称号を与えられました。

185頭と1人 生きる意味を探して

185頭と1人 生きる意味を探して 吉沢正巳

「どんな命にも意味があり、寿命まで生きるべきだ」

13年前東北を襲った大地震で原発から放射線が漏れ、福島県浪江町の住民全員に避難命令が出ました。
人は避難しましたが家畜はつれていけません。
国からは家畜に対して任意の殺処分指示が出ました。

現在「希望の牧場」を運営している吉沢正巳さん。
吉沢さんは原発事故で被ばくした肉牛たちを飼い続けています。全国から寄付を募り商品にならない牛に餌をやり、生かし続けています。

「畜産から全く外れてるんです。でも牛飼いなんですよ。牛に餌を与え世話をするのが牛飼いなんです。」

震災当時、330頭の肉牛を飼っていた吉沢さん。避難指示にもかかわらず、牛の世話をするためにとどまりました。そこで近くの牧場の牛たちの悲惨な姿-多くの牛が餓死-生き地獄そのものを見ました。
「牛たち、ごめんなさい」
人間は避難したのに牛たちを殺してしまった思いが残り、吉沢さんは他の牧場で生き残った牛も譲り受け、飼うことにしました。

「人間が命をどう扱うかということなんだ。人間はお前たち(牛)を見捨てないんだ。人間もお前たちの仲間なんだ。友達なんだ。俺は牛飼いだ。その牛飼いの仕事を生涯の仕事として最後まで続けるんだ。」

自らを「牛飼い」と呼び、一見無意味にも思える営みを続ける吉沢正巳さん。
果たして牛を生かすことに意味があるのか?

今でも吉沢さんを支えてくれるボランティアがいます。
東京から通っている会社員の男性は、牧場の牛たちを自分自身と重ねて考えたといいます。
「自分の身に当てはめて考えたら、『お前金稼げなかったら死んでいい』そんなのあり得ないでしょ。」とボランティアの会社員は言います。

吉沢さんは言います。
「牛も俺も生きてるじゃん。生きてることが意味あるんだよ。俺も人間で生きてるし、この牛たちも死んではいないんだよ。生きてる。あらゆる矛盾を抱えながら、矛盾とともに、生きるんですよ。」

命と向き合って生きる吉沢さんの日々を通じて「生きる意味」とは何なのかを考えさせられました。

戦争をやめた人たち

『戦争をやめた人たち』
・・・1914年のクリスマス休戦・・・
-鈴木まもる 絵・文/あすなろ書房 発行

信じる宗教や考えかたがどんなにちがっても、ふるさとの自然や、家族、子どもをたいせつに思う気もちは同じです。ほかの命のことを思う想像力と行動する勇気があれば、戦争をやめることはできます。

この絵本の作者、鈴木まもる氏が「あとがき」に記しています。

日本も参戦した第一次世界大戦。

開戦から5ヶ月経った1914年のクリスマス。
イギリス軍とドイツ軍の前線が絵本の舞台です。

当時の戦争はミサイル攻撃ではなく、目視できる距離まで相手に近づき、大砲や銃で撃ち合う戦術でした。
戦場は食料も少なく、冬の寒さは耐え難いものでした。

そして、12月24日。クリスマスイブを迎えました。
ドイツ軍との戦闘につかれたイギリス軍の兵士が塹壕で休んでいた、その時、ドイツ軍の塹壕から「きよしこの夜」が聞こえてきました。

そして、イギリス軍も歌い出しました。
すると、ドイツ軍から拍手が沸き起こりました。

次の日、クリスマスの朝、イギリス軍に無防備のドイツ軍兵士が近づいてきました。両手を挙げて・・・

イギリス軍も両手を挙げて塹壕を出ていきました。

何と握手したのです。

「メリー・クリスマス!」

それから歌を歌い、サッカーまで始めました。
1914年12月25日、本当にあった話です。

次の日から、また戦争は再開されました。

でも、相手を撃つことはせず、命令されると、銃を上に向け、空に向かって撃ったそうです。

どうすれば戦争がなくなるのか、絵本を通して考えさせられました。

民族、考え方、信じる宗教、政治の違い、当事国以外の国に決められた領土問題、資源の取り合い・・・

いくつかの問題が重なって争いが起きています。

何故、自分のことしか考えられないのか。相手の立場にたつことができれば争いは起こらないのに・・・

戦争をやめた人たち

平和の本

『平和の本』-バーナード・ベンソン作-

世界平和を願い、1984年にYMCA同盟から出版された『平和の本』を紹介させていただきます。

ある日、男の子と女の子(低学年の小学生)が出会い、今の世界を嘆き、何とかしようと考えます。
「テレビ局に行って、世界の人に訴えよう」

少年は、カメラの前に立ち訴えます。

「ボクは死にたくなんかない!生きていたいんだ!バカな人たちの言うことなんて聞くことない・・・生命(いのち)の言うことだけを聞けばいい。だって生命(いのち)はみんなの心からの叫びなんだもの。バカな人たちに、僕たちの地球をめちゃめちゃにさせないで・・・」

少年の頬を伝わって二粒の大きな涙がこぼれ落ちます。この少年の涙を世界中の人が見ました。そしてこの涙が地球を救ったのです。

次の日の新聞という新聞は、この出来事だけを知らせ・・・たった“ひとつ”涙をこぼしてる少年の大きな写真だけが載ったのです。

「世界の子どもたちはみんな死を望んではいない」

あまりの反響の大きさに3つの超大国の大統領が少年との面会を希望したのです。

少年は3つの超大国の指導者に平和を訴えますが、それぞれ事情があり同意を得ません。

少年は大統領に言います。

「隣人から自分たちを守ることだけを考えるのは、戦争へと向かう武器のいる道です。けれども、自分たちの方から隣人を守ってあげようと考えるのは、平和へと向かう武器のいらない道です」と。

大統領は国民に向かって呼びかけました。

「世界の皆さん、今、私は恐ろしい夢から覚めました。死の雲が最後の一人を窒息死させてしまうまで、私たちを分厚く覆っていました。その時私にはこの雲だけしかわからなかったのですが、黒い渦巻きを噴き出していたのは、実は私自身の頭からだったのです。しかし、突然、一筋の光が私の目を開かせてくれました。それは消えることのない光でした。少年の澄みきったやさしさが私から死の雲を追い払ってくれ、私に陽の光を届けてくれたのでした」

この本では締めくくりにこう伝えています。

「いま、世界がひとつになれたのは、“生きる”ことによって・・・だったのです

平和を願う祈り

神よ、私をあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところ、愛を
いさかいあるところに、赦しを
分裂のあるところに、一致を
迷いのあるところに、信仰を
誤りのあるところに、真理を
絶望のあるところに、希望を
悲しみのあるところに、よろこびを
闇のあるところに、光を
神よ、わたしに
慰められることよりも、慰めることを
理解されることよりも、理解することを
愛されることよりも、愛することを望ませてください。

「聖フランシスコの平和を願う祈り」より

「深い信仰で抵抗することはできます」

ガサ地区で逃げ惑う一般市民の言葉です。
親が爆撃で死亡。
家も学校も破壊された子どもたち。
しかし、ガザにはストリートチルドレンは存在しません。

親兄弟を失っても、祖父母など親戚の人が子どもを引き取り、育てていくのが当たり前になっています。
今日の水、食料さえ事欠くガサ地区。
自分一人生きていくのもままならない。
それでも新しい家族として生きていく。
食事を分け合い、爆撃された建物の中で遊ぶ子どもたちの笑顔。
今の日本が見習うべき「生きる力」を感じます。

冒頭に記した「平和を願う祈り」を自分のこととして読み直しました。

憎しみの渦中にある時、憎む対象を、愛をもって赦すことができるだろうか。
誤りに気付いた時、素直に誤りを認め、「ごめんなさい」と言えるだろうか。

自分の思いひとつでどうにかなることであっても、自分のこころのコントロールは難しい。

そこに相手が存在し、その間でおこった問題-憎しみ、いさかい、分裂、相互不理解-があるとき、その解決はより難しい。

問題が生じた相手を慰め、理解し、愛する・・・

私はまったく逆。まず相手から、慰められ、理解され、愛されたい。そうされたら、私もあなたを慰め、理解し、愛しましょう。

あくまで条件付きです。

ガサに住む人たちに学ばねばなりません。
 

おかげさまで創業75周年

1947年4月13日、亡父牧口五明は損害保険の個人代理店を開業しました。敗戦後2年も経っていません。

父は戦中、九州小倉の軍需工場に単身勤務していました。身体が弱かったので兵役は免れたようです。

「マッカーサー回顧録」によれば、長崎に落とされた原爆は、実は北九州に投下する予定だったとのこと。あいにく天候が悪く、北九州の予定が長崎になったようです。予定通り北九州に原爆が落とされていたら、私は生まれていません。

戦前、父は後藤静香先生の教えを関西で広めていました。生計を立てるためもあって、本屋もしていました。扱っていた本は後藤静香先生の著書、キリスト教関係の本、一燈園の西田天香先生の本など限られていました。

大阪にあった本屋は戦争で焼けてしまったので、父は保険屋をはじめました。

本屋時代も何とか本を売ろうとすることはなく、良書普及に努めていました。保険屋になっても同じで、保険本来の趣旨「一人は万人のために、万人は一人のために」という考え方を広めようとしていました。自分が災害にあった時のために「保険」は必要ですが、他人が災害にあった時のために、一人一人が協力(拠出)するのだという考えを説いていました。

また、お客さまに会う時に、その人にあった書物を紹介したり、小冊子を差し上げたり、キリスト教の話をしたりしていました。保険販売というイメージは全くありませんでした。

保険をたくさん売って、いっぱい儲けてということはありませんでしたが、「同じ保険を買うなら牧口さんから」というお客さまの支えで何とか生活できていました。

私が父の仕事に携わったのは1975年からです。

自分の給料は自分で稼がなあかん。目標を立てて行動に移しました。そんな私を父はたしなめました。

「自分の都合で売上目標を立てるものではない。すべては神さまに委ねなさい。神さまは必要なときに、必要なものを、必要なだけ与えてくださる。」

父が言いたかったことを理解するのにかなりの時間を要しました。

2018年、社長を長男に譲りました。創業75年。よくぞ潰れず、ここまできたものだというのが素直な感想です。

本当にみなさまのお陰です。ありがとうございました。