「コヘレトの言葉」を読んで

「空の空、空の空、いっさいは空である。」
(聖書・コヘレトの言葉 第1章2節)

若い頃、この言葉はどこか暗く、虚無的な響きをもつものに思えた。
しかし歳を重ねた今、この言葉の意味が少し違って見えてくる。

何かを成しても、成さなくても、
社会的に評価されても、されなくても、
健康に気をつけても、気をつけなくても、
人はみな老い、やがて死を迎える。

築いた地位、蓄えた財産、身につけた知識、
すべて、死の前には「空」である。

表面的には儚さ、虚しさを感じる。
だが、それは絶望ではない。
むしろ、人間の力の限界を知れ、という智恵ではないかと思う。

人は、自分の力で人生を切り拓いてきたように考える。
私もそう思って生きてきた。

しかし振り返ると、自分の力だけでは成り立たなかった。
自分の意志だけでは説明できない導きがあった。

守られた時があり、備えられた出会いがあり、
思いを超えて道が開かれた。

人は自分で生きているようでいて、
本当は神に導かれているのだ。

「コヘレトの言葉」は言う。(聖書・コヘレトの言葉 第3章)
天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生るるに時があり、死ぬるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。
働く者はその労することにより、なんの益を得るか。

わたしは知っている。
すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、
これに加えることも、これから取ることもできない。
時は人の支配には属さず、神の御手にある。
そう思うと、
「空」とは、
存在そのものの無意味さではなく、
人間の誇りや執着の空しさを語っているのだとわかる。

仏教に「一切皆空」という言葉がある。
執着を離れ、真実を見るという知恵である。

宗教は違っても、深いところで響き合うものを感じる。

Steve Jobsも、
「毎日、今日が人生最後の日と思って生きなさい」と語った。

他者からの期待、世間の評価、プライド、失敗への恐れ――
そうしたものは死の前では「空」となる。
本当に重要なものだけが残る。

77歳になり、身体の衰えを感じる。
特に緑内障で視野が欠け、眼鏡での矯正もできない。
書類やパソコンはフォントを16に拡大してみている。

しかし、老いは失うことばかりではない。
手放すことを学び、
執着を薄くし、
今日という一日を感謝する。
日々、学ぶことは多い。

コヘレトの言葉12章は、老いを静かな詩として描く。
その後に来る結論が重い。

「事の帰する所は、すべて言われた。神を畏れ、その命令を守れ。これ人の本分なり。」(コヘレトの言葉12章13節)

ここにコヘレトの言葉の核心がある。

すべては空である。
だから絶望せよ、ではない。

すべては空である。
だから神を畏れよ、なのである。

人生を支配しようとするのでなく、
与えられた生を受け取り、神の前に歩む。
それが人間の本分なのだろう。

77歳となった今、私にはこう聞こえる。

「自分で生きていると思うな。神に生かされていることを覚えよ。」

コヘレトの言葉は、そのことを静かに、しかし深く、教えているように思う。