一燈園発行の月刊機関紙「光友」に、障害のある子どもを持つ家庭の物語が掲載されていました。
親子の愛とは何か、人間にとって本当に大切なものは何かを考えさせられるお話でした。
作者は、次男のたけし君が生後三か月のとき、ダウン症候群と診断されました。
「そんなはずはない。お医者さまの誤診だ」
幸せな家庭が一転して暗闇に包まれたように感じ、作者は自分を責めました。
障害のある子どもを産んだことを世間に知られたくないという思いから、家族にも事実を告げませんでした。
しかし、たけし君が生後十一か月のとき、肺炎で入院したことが、作者の心を大きく変えるきっかけとなります。
高熱に苦しむたけし君を見つめながら、作者の心に、恐ろしい思いがよぎりました。
「このまま死んでくれたら……障害児だということを世間に知られなくてすむ……」
その瞬間、たけし君のすがるような目と、作者の目が合いました。
「おかあちゃん、苦しいよ。助けて。ぼく、おかあちゃんの子やろ」
言葉にならない訴えが、作者の胸に突き刺さりました。
「この母を許して……」
作者は、たけし君を抱きしめて泣きました。
その夜、たけし君は必死に死と闘い、ついに危機を乗り越えます。
小さな命が懸命に生きようとする姿を目の当たりにした作者は、気づけば手を合わせ、祈っていました。
「私の命を半分に切って、たけしについでください。どうか、この子をお救いください」
この出来事を境に、作者の心は少しずつ変わっていきました。
たけし君を支えたのは、母親だけではありません。
祖父は、暑い日も寒い日も、たけし君が遊び終わるまで見守りました。
祖母も、娘と孫を支え続けました。
家族の愛情に包まれながら、作者は、たけし君の母親として生きる覚悟を深めていきます。
やがて作者は、あることに気づきます。
たけし君に幸せを与えようと必死に生きてきたつもりだった。
しかし実際には、世の中の汚れを知らない、たけし君の純粋な優しさに支えられて、自分自身が生かされていたのではないか、と。
たけし君の兄が中学三年生のとき、教育委員会の刊行物に文章を寄せました。
幼い頃、兄が「なぜ、たけしはしゃべれへんの」と母親に尋ねたとき、母親は、神様が間違って造った子どもをどの家庭に育ててもらおうかと考え、自分たちの家を選んだのだ、と答えました。
しかし、成長した兄は、こう考えるようになりました。
もし本当に神様がおられるのなら、たけし君たちは決して造り間違えられたのではない。
人間社会に必要な存在として、この世に生まれてきたのではないか。
それは、真実の愛を忘れかけている人間たちへの、神様からのメッセージなのかもしれない、と。
この物語は、私たちに人間の価値とは何かを問いかけています。
聖書には、次のような言葉があります。
「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」
(コリントの信徒への手紙一 12章22節)
私たちは、能力や業績、社会的な成功によって人の価値を判断しがちです。
しかし、聖書は、弱く見える人も私たちにとって大切な存在であると教えています。
たけし君は、家族から愛されるだけの存在ではありませんでした。
その命によって、家族に愛することの意味を教え、人間として成長させてくれたのです。
また、聖書には、こう記されています。
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださっているからです。」
(ヨハネの手紙一 4章19節)
私たちは、神に愛され、その愛によって生かされています。
そして、その愛を隣人に分かち合うように招かれています。
障害のある人も、病気の人も、年老いた人も、皆、かけがえのない命を与えられた存在です。
人間の尊厳は、能力や障害の有無によって失われるものではありません。
たけし君の物語を通して、私たちもまた、人を能力や成果で判断するのではなく、その人の存在そのものを大切にしたいと思います。
人を愛しているつもりが、実はその人によって自分も生かされている。
そのことに気づくとき、私たちは神の愛を、より深く知ることができるのではないでしょうか。