忘れがたい出会い

エッセイスト・大石邦子さんとの出会いを紹介したい。
1996年の秋、姉から一冊の本『遥かなる心の旅』を勧められた。
それが大石邦子さんとの出会いだった。

「もっと大石さんの本を読みたい。」
そう思い、巻末で紹介されていた著書を次々と取り寄せた。

『この生命ある限り』『この愛なくば』『この胸に光は消えず』『この窓の向こうへ』『私の中の愛と死』『この生命を凛と生きる』、歌集『くちなしの花』『冬の虹』、児童文庫『野口英世』。
気がつけば、そのすべてを読み終えていた。

大石さんは21歳のとき、一瞬の事故で左半身麻痺となった。
その後、「第4領域症候群」と診断され、不治の病を宣告される。
両下肢と左上肢は弛緩性麻痺となり、思うように身体を動かすことができなくなった。

「歩きたい。もう一度、風のように野山を駆け抜けたい。」
しかし、寝返りさえ打てない日々が続く。
高校時代の友人たちは交代で毎日病室を訪ねてきた。
一日たりとも途切れることはなかった。
しかし、友人たちは次第に結婚し、それぞれの人生を歩み始める。

「もう来ないでほしい。」
大石さんは、心の中でそう願ったこともあった。

そんなある日、一人の友人の母親が訪ねてきた。
「クーチャン、お願いだから娘にお見合いをするように言って。娘は『クーチャンが退院するまでは、お見合いはしない』と言って聞かないの。『もし私がクーチャンだったら、一人くらい一緒に待ってくれる友達がいてもいいと思わない?』って言うの。」
その言葉に、大石さんは友の深い愛情を知った。

大石さんは、自分が生きていることで家族に迷惑をかけていると思い、自ら命を絶とうと考えた。
窓から飛び降りようとしても、そこまで歩くことができない。
そこで睡眠薬をため、一気に飲んだ。
数日間意識不明となったが、命は助かった。しかし後遺症だけが残った。

意識を取り戻した娘に父は叫んだ。
「わかるか、クニコ。生きてさえいてくれれば、それでいいんだ。」
この言葉に、大石さんは両親の深い愛を知った。

大石さんの著書は、死と隣り合わせの青春を、残された片手で綴った記録である。
私は、大石さんが常に死と向き合いながら、それでも「生きる」ことを選び続けた姿勢に深く心を打たれた。

その後、大阪での講演を知らせてくださり、初めてお目にかかった。
さらに会津のお宅を訪ねる機会にも恵まれた。

品性とは、大石さんのような方に接したときに覚える、言葉では表せない感情のことなのだと思った。
お会いすると背筋がすっと伸び、心が洗われ、素直な自分を取り戻していくような気がした。

「ぜひ多くの人に大石さんの生き方を聞いていただきたい。」
そう願い、私も講演会を開かせていただいた。

『人は生きるために生まれてきたのだから』(講談社)の中で、大石さんはこう記している。

「私は20代で事故に遭い、車椅子の人生を余儀なくされた。もう生きられないと思っていた20代から、人は生きられるように創られているのだと思えるようになるまで、遥かな歳月を要した。鏡のなかの私に、その遥かなる歳月は、如実に表れている。若さを懐かしく思うこともある。けれども、年を経ることで得た、やすらぎもある。生きてみなければわからないことが、たくさんあった。その一つひとつの経験が、心のなかのポケットに入って、いまの私を支えている。」

また、こうも書いている。
「自分にも子どもがいたなら、母親として伝えておきたいことをまとめてみました。まぼろしのわが子への、思いです。」

生きる意味を見失い、自ら命を絶とうとする若者たちのニュースに心を痛めながら、大石さんは「生きること」の尊さを静かに語り続けている。

私にとって大石邦子さんとの出会いは、生涯忘れることのできない、大きな恵みであった。