1歳年上の姉が脳出血で倒れた。
倒れる3日前、私は教会で姉と顔を合わせた。 その姿に何一つ変わった様子はなかった。 まさか数日後に生死の境をさまようことになるなど想像できなかった。
姉はICUで酸素吸入を受けながら生命をつないだ。 意識は戻らなかった。
私は姉をよく知る教会の友人にラインを送った。 脳出血で意識のないこと。 祈っていただきたいこと。 友人たちは驚き、心を込めて祈ると返信してくれた。
意識不明になって3日後、夫の呼びかけに反応を示した。次の日、夫が病室を出るとき「バイバイ」をし、その次の日には、HCUに移り、少しだけだが会話もできるようになった。 医学的に大きな前進だ。
「祈りは聞かれた」 私には奇跡の回復だった。 「祈りは通じる」と信じることと、「結果を祈りの量や信仰の強さで説明しない」ことは両立する。
キリスト教では、祈りは神を動かす呪文ではなく、神との交わりだ。 神は祈りを必ず聞いてくださる。 しかし、その応え方は神の御心に委ねられている。 その中で、今回は姉に回復という恵みが与えられたのだ。
私から教会の友人へのラインは、友人から友人へ。 結果的に祈りの輪は広まった。 多くの人が姉のことを覚え、神さまに執り成してくださった。
私は、「祈りは通じた」と信じている。 もちろん、医学の力によって助けられたことも忘れてはならない。 しかし、多くの方々が姉のために祈ってくださった事実を思うとき、その祈りが神に届かなかったとは思えない。
だからといって、もし回復がかなわなかったとしても、「祈りが足りなかった」とは決して思わない。 祈りは結果を保証するものではない。
それでも、神は祈りを聞いてくださる。
今回の出来事を通して、私はあらためて、祈りの力と、祈りによって結ばれる人々の温かさを深く感じた。 多くの方々の祈りに感謝している。