教える者から忍ぶ者へ

教える者から忍ぶ者へ

歳を重ねて人から相談されることがあります。

「牧口さん、どう思いますか」
「牧口さんならどうしますか」

私は、いつも自分だったら・・・って考えます。
なので、聞かれたら、「私はこう思う」「私だったらこうする」と伝えます。

でも、話しているうちに自分の思いに固執している自分に気づくことがあります。
私の思いが相手に届いて、「ありがとうございました」と感謝されたりすると、相手にとってよかったとしても、自分が満足していることに気づくことがあります。

藤木正三先生は私のような人間に対して警鐘をならされています。
『福音はとどいていますか』(ヨルダン社、藤木正三・工藤信夫著)の中に次のような断想があります。

間違っておればそれを教えてあげるのが親切ですが、その場合相手の間違いに苛立ち、自分との違いに耐えられず、自分の考えに相手を従わせて満足しようとする心に走り易いものです。

しかし、教えることが本当に相手の為なら、そこ満足するのは相手であって自分であってはならない筈ですから、自分の満足を求めるような心がいささかでもあるなら、それはお節介だと自戒しましょう。お互い間違いながら生きているのです。いちいち間違いを取り上げて教えるよりは、それを忍ぶ者となるように自分をこそ教えたいものです。

『ガーン!』

しかしです。
世の中には、自分が与えたアドバイスや援助で人が立ち直ったことを自慢しまくっても、嫌味にならない人がいます。

表面上は全く謙虚さがない。自己肯定感100%。
自己満足感も100%だと感じる。
でも憎めない。彼のまわりは笑いが満ちている。

自分の考えを人に押しつけないようにはしたい。
アドバイスが本当に相手のためなら、
満足するのは相手だということを自覚していたい。

しかし、感謝されたら素直に喜んでもいたい。